Sunday, January 31, 2021
第一章 ロンドン(5)
Saturday, January 30, 2021
第一章 ロンドン(4)
米国政府代表は元上院議員で大統領候補にもなったジェームズ・エドワード弁護士だという。女性スキャンダルで政界から遠ざかっていたが、自らの専門である医療過誤裁判の手腕を買われて、二期目のバイデン大統領から特使として声がかかった。
BBCはそうした経歴と最近のエドワード氏の様子を伝えている。72歳だがトレードマークである毛量の多い髪はフサフサとしている。
国際司法裁判所(ICJ)といえば、捕鯨問題をめぐってオーストラリアが日本を提訴した事件があった。日本が南極海で行っていた調査捕鯨は国際捕鯨取締条約に違反するとして、オーストラリアが中止を求めた。結果は日本が敗訴し、南極海の調査捕鯨から撤退。最終的に日本は国際捕鯨委員会から離脱し、沿岸の商業捕鯨を開始した。
このICJ裁判で日本政府代表を務めた鶴岡公二氏は、当時の安倍首相から厳しく叱責されたと報じられたが、その後は駐英大使を務めてリタイアした。コロナ禍でガラガラに空いた列車に乗って家族で旅行やグルメを楽しみ、人生を謳歌している様子をツイッターにアップしていた。かつてネコは鶴岡氏と仕事で顔を合わせることが時々あったが、当時とはうって変わってリラックスした表情の写真だった。
日本大使公邸はケンジントン宮殿からほど近いKensington Palace Gardensという通りにある。フランスやロシアなど他国の大使公邸もある屋敷街で、ロンドンの一等地の中でも閑静でひときわ素敵なオーラが漂っている。こんなところに住むことができたら、どう考えても人生が楽しくないはずがない。ネコのアパートから歩いて20分程度で、ハイドパーク経由で散歩するコースはお気に入りだった。
夕方6時を過ぎて、ようやく少し空腹になってきた。久しぶりの長旅で疲れるかもしれないと思い、アパートに着いたらすぐに食べられるよう、成田空港のセブンイレブンで買い込んできたカップ麺やみそ汁もある。しかし、ひそかにファンだったエドワード氏の様子を見ると、にわかに元気が出てきた。
アパートから毎日のように通っていたスーパーSainsburyはまだあるだろうか。イギリス料理はおいしくないと言われてきたが、それはロンドンに長年行っていないと言うことと等しい。Kings RoadにあるMarks & Spencerまで歩くエネルギーはないが、すぐ近くのSainsburyで売っているスモークサーモンを使ったサラダやサンドイッチはなかなかいける。
黒々としたペンキで塗られたドアの鍵を閉め、赤い絨毯の廊下を歩いてエレベーターのボタンを押してしばらく待つ。Ground floorで降りてロビーを通過すると自動ドアが開く。右に歩いて行くと、まもなくSainsburyのオレンジ色の看板が目に飛び込んでくる。ああ、まだあったのだ。
店に入ると右手の棚にサラダやサンドイッチがある。スコットランド産のスモークサーモンを使った総菜、さらにはTPPで無関税になった日本のおにぎりもある。食料品の鮮度を保つ技術は日進月歩で、日本のコンビニで売っているおにぎりがそのままの味で地球の裏側にも届くようになった。
サラダとおにぎり、はちみつをまぶしたピーナツ、オレンジジュース、ヨーグルト、りんごを買い物カゴに入れてレジに並ぶ。自動レジもあるが、日本のクレジットカードを久しぶりに使えるかどうか、有人レジで確かめたい。
"Next, please"と呼ばれてカウンターに行く。"How are you doing?"と話しかけられ、どこかで聞き覚えのある声だと気づく。金髪の若い女性がバーコードを次々とかざしていく。彼女に見覚えはないのだが、どこで聞いた声だろうか。いくら考えても、すぐには思い出せない。
Friday, January 29, 2021
第一章 ロンドン(3)
これだけ多くのコロナ犠牲者が出たのだから、彼は他界したのだろう。そう思うことにした。
この世に生きていようが、いまいが、彼はネコの世界からはいなくなった人である。そういった意味で他界という言葉は合っている。
米国ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の女性4人組の1人、弁護士のミランダも言っていた。「男から連絡が来なければ、彼は死んだと思うようにしているわ」
コロナ以前から、ふとしたきっかけで二人は連絡を取らなくなっていた。彼はニコという名前のロンドンっ子で、ネコのイギリス留学中に知り合った。国籍は違えどネコとよく似た名前で気が合っていた。あの時こうすれば、ああすれば。。と彼女は悩んできたが、よかれと思った行動が正解だったとも限らない。
アパートの鍵を受け取り、エレベーターで702号室に向かう。イギリスでは日本の8階に相当する。20平米ほどのワンルームだが、ヨーロッパでは貴重なバスタブのある浴室、皿やカップと調理器具が揃ったミニキッチン、セミダブルベッド、ダイニングテーブル・椅子がある。エアコンはないが、フロントに頼めば扇風機を貸してくれる。地球温暖化で酷暑の日が数日あるかもしれないが、日本のように何週間も続くことはないだろう。
自宅からドア・トゥー・ドアで24時間はかかったが、空腹ではない。モスクワ・ロンドン間の機内食でビーフシチューとピロシキが出て、やや胃がもたれている。禁酒を続けているため、シャンパンの代わりにスパークリングウオーターを飲んだ。それでもかなりのオーバーカロリーなのは間違いない。
出張の多いビジネスマンに肥満が散見される理由には、こうした事情があるだろう。目的地に着いたあとも接待や会合でコース料理を取る。一回の食事で一日分以上のカロリーを摂取してしまう。 そしてブクブクと太り、コロナが重症化して死亡した例も結構あった。
米国で最多のコロナ犠牲者が出た理由の一つは、肥満率の高さである。外出自粛で過食と運動不足が加速し、2025年までには成人の半数がBMI30以上の肥満になっていた。
ネコの元上司Aはこの典型例であった。お腹がせり出して相撲力士のような体格で、運動するにもジョギングが可能なのかわからないほど太っていた。それでも体力はあり、仕事の成果というよりも海外出張の数を自慢していたが、新型コロナウイルスには脆弱だった。そして米国のコロナ犠牲者5000万人の1人となってしまった。
比喩的な言い方になるが、じつはAが組織全体のコロナという図式だった。この部門にはかねてから問題があり、震源地はAだった。それを察知した組織トップが解決のため外部からマネージャーを引き抜いてきたが、結局のところマネージャーは「コロナ禍」に蝕まれた環境に耐えられずに出て行ってしまった。職階に関係なく、問題を解決しようとすれば誰しもコロナに感染した。そして表向きには転職、リタイア、予算削減によるリストラなどの理由で多くの人々が去って行き、ネコもその一人だった。
なんとも後味の悪い体験だったが、すべては終わった。この数年間にたまったモヤモヤをスッキリさせるために、ロンドンにやってきたのだ。
にわかに長旅の疲れが出て、ネコはセミダブルベッドの羽毛布団にすべり込んだ。テレビのリモコンをつけると、BBCのニュースが映し出される。きれいなイギリス英語を話す黒人アナウンサーが米国政治の最新情報を伝えている。
国務省は新型コロナウイルスの発生源が中国・武漢の研究所であるという主張を続け、ついに米政府は中国共産党を相手取って国際司法裁判所に提訴する方針を固めたという。
Thursday, January 28, 2021
第一章 ロンドン(2)
車窓はやがて高層ビルが入り混じり、再びトンネルに入る。地下鉄ではあるが地上も走り、この場面でいつも丸ノ内線を思い出す。
だが丸ノ内線とは違って、向かい席の乗客と目が合いそうなほど車両は小さく、天井も低い。だからこそTubeなのだ。この点ではむしろ大江戸線を彷彿とさせる。
ビジネス客の多くは市内に出るのに特急ヒースロー・エキスプレスを使うが、ネコにとって終点のパディントン駅は中途半端だ。地下鉄ピカデリー線は各駅停車で乗車時間は長く1時間近くかかることもあるが、空港ターミナルからアパートの最寄駅サウスケンジントンまで直通で乗り換えの手間もない。
SuicaやPASMOに相当するOysterカードを最後に使ったのは10年前だが、当時の残金を使うことができた。ちなみに香港の地下鉄はOctopusカードと言うが、七つの海を支配した大英帝国の象徴だろうか。だとしたら、香港の中国化を推し進める中共としてはOctopusという名前を変えるかもしれない。だが共産党の色だからと言って、Red Cardということもなかろう。
バイデン政権でも中共関係者の米国入国は厳しく、まさにRed Cardの状態が続いている。中国との深い関係が指摘されるバイデン一族だが、じつは中国エリートの間ではWeChatでトランプの功績を称える匿名コラムが拡散していた。米国が世界中で行ってきたことは、いわゆる人権のためではなく米国支配のためである。トランプは米国資本主義の醜い本質を暴き出すという、極めて珍しいプロパガンダを行ったのだ、と。
つらつらと考えていると、いつの間にか地下鉄はサウスケンジントン駅に到着した。向こう半年分の荷物が入ったスーツケースを持ち上げると、ずっしりとした重たさが、もはや彼がいないことをネコに痛感させた。
ここで言う「彼」は代名詞のHeであり、boyfriendではない。イギリスを含むヨーロッパでは日本やアメリカと比べて、法律婚とパートナーの差がかなり小さい。それと同じように、friendとboyfriendの違いも相当あいまいである。
Wednesday, January 27, 2021
第一章 ロンドン(1)
ロシアや中国の滞在客向けにリノベしたロビーでは、金でふちどられ磨きぬかれた大きな鏡がSloane Avenue沿いの緑や、黒光りするロンドンタクシーを映し出している。
世界中を席巻した新型コロナウイルスが収束して半年。第二次大戦と同じレベルの8500万人が死亡後、にわかに感染者数が減少して絶滅した。
あれはいったい何だったのか。ノーベル賞級の科学者たちがいくら研究を重ねても、さっぱりわからない。トランプ政権下の国務省が主張したように、中国・武漢の研究所から出てきた人工ウイルスだったのか。新型コロナウイルスの発生メカニズムがわからないのと同じように、終息メカニズムもわからずじまいだ。
ともあれ2025年1月、WHOは新型コロナの撲滅を宣言。外出自粛でストレスが最高潮に達していた世界中の人々は旅行にどっと繰り出し、フライトや宿泊費は高騰した。羽田・ホノルル間のエコノミークラスが往復100万円の値をつけて話題を呼び、航空会社やホテルの株価は底値から10倍に急上昇。そんな中、格安価格で起死回生に打って出たダイヤモンドプリンセス号の甲板は、まさに波に乗ってFIRE(Financial Independence, Retire Early)に移行した投資家でごった返していた。
そうしたポスト・コロナバブルが一段落した半年後。ネコはロンドン地下鉄のサウスケンジントン駅から地上に出て、重いスーツケースを転がしSloane Avenueにあるサービスアパートに到着した。金ぴかのロビーでは中国語、ロシア語、ほかに何語かわからないが、とにかく英語以外の言葉が飛び交っている。
アエロフロートの格安ビジネスクラスチケットを入手し、モスクワ経由でロンドン・ヒースロー空港に降り立った時には、10年ぶりの渡英にいろいろな思いが錯綜した。丸天井の小さな地下鉄車両がトンネルを抜け、グレーのどんよりとした雲の下に広がり緑したたるサッカー場、レンガの家々が目に飛び込んでくる。
新型コロナの変異株で壊滅的な被害を受けても、この風景は時が止まったようにまったく変わらない。