Friday, January 29, 2021

第一章 ロンドン(3)

  これだけ多くのコロナ犠牲者が出たのだから、彼は他界したのだろう。そう思うことにした。

 この世に生きていようが、いまいが、彼はネコの世界からはいなくなった人である。そういった意味で他界という言葉は合っている。

 米国ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の女性4人組の1人、弁護士のミランダも言っていた。「男から連絡が来なければ、彼は死んだと思うようにしているわ」

 コロナ以前から、ふとしたきっかけで二人は連絡を取らなくなっていた。彼はニコという名前のロンドンっ子で、ネコのイギリス留学中に知り合った。国籍は違えどネコとよく似た名前で気が合っていた。あの時こうすれば、ああすれば。。と彼女は悩んできたが、よかれと思った行動が正解だったとも限らない。

 アパートの鍵を受け取り、エレベーターで702号室に向かう。イギリスでは日本の8階に相当する。20平米ほどのワンルームだが、ヨーロッパでは貴重なバスタブのある浴室、皿やカップと調理器具が揃ったミニキッチン、セミダブルベッド、ダイニングテーブル・椅子がある。エアコンはないが、フロントに頼めば扇風機を貸してくれる。地球温暖化で酷暑の日が数日あるかもしれないが、日本のように何週間も続くことはないだろう。

 自宅からドア・トゥー・ドアで24時間はかかったが、空腹ではない。モスクワ・ロンドン間の機内食でビーフシチューとピロシキが出て、やや胃がもたれている。禁酒を続けているため、シャンパンの代わりにスパークリングウオーターを飲んだ。それでもかなりのオーバーカロリーなのは間違いない。

 出張の多いビジネスマンに肥満が散見される理由には、こうした事情があるだろう。目的地に着いたあとも接待や会合でコース料理を取る。一回の食事で一日分以上のカロリーを摂取してしまう。 そしてブクブクと太り、コロナが重症化して死亡した例も結構あった。

 米国で最多のコロナ犠牲者が出た理由の一つは、肥満率の高さである。外出自粛で過食と運動不足が加速し、2025年までには成人の半数がBMI30以上の肥満になっていた。

 ネコの元上司Aはこの典型例であった。お腹がせり出して相撲力士のような体格で、運動するにもジョギングが可能なのかわからないほど太っていた。それでも体力はあり、仕事の成果というよりも海外出張の数を自慢していたが、新型コロナウイルスには脆弱だった。そして米国のコロナ犠牲者5000万人の1人となってしまった。

 比喩的な言い方になるが、じつはAが組織全体のコロナという図式だった。この部門にはかねてから問題があり、震源地はAだった。それを察知した組織トップが解決のため外部からマネージャーを引き抜いてきたが、結局のところマネージャーは「コロナ禍」に蝕まれた環境に耐えられずに出て行ってしまった。職階に関係なく、問題を解決しようとすれば誰しもコロナに感染した。そして表向きには転職、リタイア、予算削減によるリストラなどの理由で多くの人々が去って行き、ネコもその一人だった。

 なんとも後味の悪い体験だったが、すべては終わった。この数年間にたまったモヤモヤをスッキリさせるために、ロンドンにやってきたのだ。

 にわかに長旅の疲れが出て、ネコはセミダブルベッドの羽毛布団にすべり込んだ。テレビのリモコンをつけると、BBCのニュースが映し出される。きれいなイギリス英語を話す黒人アナウンサーが米国政治の最新情報を伝えている。

 国務省は新型コロナウイルスの発生源が中国・武漢の研究所であるという主張を続け、ついに米政府は中国共産党を相手取って国際司法裁判所に提訴する方針を固めたという。 

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