Saturday, February 27, 2021

第二章 香港(5)

 東南アジアの魚料理によくあるハーブが乗っている。以前、ロンドンに行く南回りのフライトでバンコクにストップオーバーし、現地に駐在中だった大学時代の友人と会って食事をしたことがある。彼は翌日、このハーブが原因と思われるひどい下痢に遭い、「長距離フライトで大変だったんじゃないかと心配してたんだよ」とメールで伝えてきた。ところがネコはすこぶる元気で、全く問題がなかった。

 父親はよく言っていた。戦時中の物のない時代を過ごし、食べるものを選べる状況ではなかったから胃腸が鍛えられた、と。ネコは強靭な胃腸も譲り受けたのかもしれない。

 風邪を引くと抗生物質と一緒に、ムコスタという胃腸薬も処方される。だがムコスタを飲んでも、飲まなくても体調は変わらない。胃腸は丈夫だが、読書家でガリ勉の父から強度近視とその原因となる生活習慣は受け継いだ。そのためかドライアイになり、治療としてムコスタの目薬版を使っている。胃壁を保護するムコスタの機能に着目し、眼の表面を保護する目薬として開発された。効果はあるようだが、眼から鼻、喉の奥へと目薬が流れていったときに、なんとも言えない苦さを感じる。
 
 B氏はナイフとフォークを器用に使い、魚とハーブをネコの小皿に盛る。ハーブの件を思い出したものの、いずれにせよネコには問題がなかったので何も言及しない。

 B氏は見た目にも人柄も、典型的な善良な日本人サラリーマンである。身長は170~180センチの間くらいだろうか。やせ型で縁の薄い眼鏡をかけている。言葉に無駄がなく状況説明がわかりやすい。高慢な感じはなく、卑屈でもない。厭世的でも楽観的でもなく、客観的だが事実やデータを話しつづけることもない。一回の発言が適切な長さでありながら、興味を引く情報が含まれる。日本の大企業に長く勤めて、いいポジションを得ていくタイプなのだろう。

 そう考えていくと、アメリカ人でも日本に興味があり、日本駐在が長かったり、あるいは日本関連の仕事していると、こういうタイプに似ている。まず第一の特徴として、太っていない。日本人と同じものを食べていれば、そうそう極端に太ることもないだろう。さらには白人のルーツであり世界的な観光地の欧州諸国ではなく、ある意味で特殊な日本という国に興味を持ち、世界の共通言語でもなく英語ネイティブにとって極めて難解な日本語をあえて学ぶといういう点で、視野が広く、とても勤勉ということが言える。

Friday, February 26, 2021

第二章 香港(4)

  徹底したロックダウンということか。それにしても都市封鎖と言えばいいのに、なぜロックダウンとわざわざ英語で言うようになったのか。

 おそらく小池都知事がロックダウン、オーバーシュートなどと言ったのが事の始まりという気がする。ネコはその前から、イタリアにいる同僚からlockdownだと聞いて辞書を引いて初めて知った単語である。

 2020年の初めごろ、武漢の医師が見たこともない肺炎患者がいるとSNSで警鐘を鳴らしたことで「社会不安をあおった」として、警察から訓戒処分を受けた。もしかしたら、研究所から出て行ったウイルスをどう説明するのか、政府が考える前に情報を発したからだったのか。

 その一方で武漢を徹底的に封鎖し、上海のディズニーランドの再開時はお手本のような感染予防対策が報じられた。人工ウイルスが拡散した場合の対処マニュアルが既にあったからなのか。

 歴史の流れを分析する方法として、「〇〇が発生したためXXが起き、結果として△△が得をした」という事実関係に注目するやり方がある。この三段論法で行けばコロナが発生したため米国で大混乱になり、結果としてトランプが退陣した、と言える。コロナ前は米国経済は好調で雇用も拡大し、コロナがなければ間違いなくトランプが再選されていただろう。

「米国はずっとコロナが武漢の研究所で発生したと主張してますからね」

「まあね。実際のところはわからないが、中央集権的な体制が功を奏した、とも言える」

 ウエイトレスが次々と注文した料理を運んでくる。パソコンを使いすぎたためか、ちょっとしたものをつかんだり、持ち上げたりすると左肘が痛いので、ネコはB氏が取り分けてくれる魚を待つ。

Saturday, February 20, 2021

第二章 香港(3)

  CCTVのアナウンサーが話すマンダリンは、犬が甲高くキャンキャン鳴いているようだ。北朝鮮の女性民族衣装をまとったニュースキャスターを彷彿とさせる。寝起きのボーっとした頭にはきつい。共産圏の特徴かと言えば、旧共産圏のロシア語はボソボソとしている。

 エコノミー症候群ではないものの、長距離フライトでずっと座りっぱなしだった。食事を済ませてシャワーを浴びる前に、ホテルの屋外プールで泳ぐことにした。ヤシの木が茂り、いかにもリゾート風のプールサイドだが、高層建築に囲まれた場所にあり風通しが悪いため、どうしてもカビくさい。香港やタイが好きな人は多いが、高温多湿が苦手なネコは東南アジアには住めないと感じる。

 夕方になり、ホテルの自動ドアを出ると、少しは蒸し暑さがやわらいでいる。地下鉄湾仔(ワンチャイ)駅につながっている高架式の通路を歩いて行く。橋の下には混雑した道路と元気よく茂ったヤシの木の街路樹があり、いかにも香港らしい猥雑な建物がそびえ立っている。

 オクトパスカードを感知させて駅に入り、ラッシュ時の地下鉄に乗る。コスモポリタンな大都市ではあるが、ロンドンほど人種や肌の色の多様性はなく、アジア系が多い。尖沙咀(チムサーチョイ)で降りて地上に出る。少し歩くとまもなく、水槽をならべた海鮮料理店が見えてくる。しばし水槽内で泳ぐ魚を見つめたあと、ドアを押して店の中に入る。

 薄い縁の眼鏡をかけたB氏が手を振る。

「ご無沙汰しています。お忙しい中ありがとうございます」

「元気そうだね。香港は何年振りくらい?」

「そうですね、かれこれ7、8年になります」

 ウエイトレスがテーブルにやってきて、英語で話しかける。表向きには中国化は進んでいるものの、香港人は中国へのアレルギーが強い。マンダリンを話すとぼったくられることもあるので、用事は英語で済ます。

 注文のエビが運ばれてくる。

「コロナは本当に大変でしたね。あんなことが起きるとは。。でも欧米と比べて、香港・マカオを含めて中国の対応は全体としてはよかったんじゃないですか?」と、ネコはエビをつつきながら、それとなく様子を伺う。

「そうだね。かなり入念に準備されたマニュアルがあったっていう噂もある」

Sunday, February 14, 2021

第二章 香港(2)

 カーテンを閉め切った真っ暗な部屋でウトウトしながら、お腹も空いてきた。そろそろ起きるか。。時計のランプをつけると、正午を少し回ったところだ。

 ボタンで自動式のカーテンを開くと、やや曇天だが暑苦しそうな空がまぶしい。電話には赤いランプが点滅している。メッセージを聞くと、大学の先輩Bだった。東京外大中国語学科の7年上で日系企業の香港現地法人社長をしている。二人とも酒は飲まないが、B氏の一時帰国中、中国文学の教授を囲む飲み会で知り合った。最近の香港事情について食事をしながら話を聞かせてほしいと、ネコがお願いしたところ快諾してくれた。親切で几帳面な性格のB氏から、予定通り今夜6時に尖沙咀(チムサーチョイ)の店で会いましょう、という確認のメッセージだった。

 尖沙咀は東京でいえば新宿のような感じだろうか。香港随一の繁華街で飲食店がひしめいている。夜は海鮮料理なので、昼はパスタにでもしようか。すでにかなり空腹だが、ランチで外に出るにも髪はボサボサ、長旅で疲れて顔もぼんやりしている。今すぐにシャワーを浴びて身づくろいをするのは、ハードルが高い。

 ルームサービスの重たいメニューに手を伸ばし、ビニールの表紙を開いて眺める。サービス料が20%かかり、思わず電卓で税サ込の合計料金を為替レートも考慮して計算する。パスタとサラダを合わせて、日本円で3800円くらいだろうか。

 クリントン政権の報道官George Stephanopoulosの回顧録"All Too Human"にこんなシーンがある。ホテルの一室に作戦会議のためスタッフが集まり、食事の時間になったのでルームサービスを取ることにした。ヒラリーが目を輝かせて「これは子供の頃の最高の贅沢だった」とメニューを見つめ、そこにいた全員が最高の重大事のように注文を選んだ。

 少し歩けばMarks & Spencerがあり、ほとんど変わらない食事内容を4分の1程度の値段で済ますこともできる。だが泥のように疲れていて部屋から出たくなかった。意を決して受話器を上げ、パスタとサラダを注文する。

 40分ほどでドアのベルが鳴り、ボーイがカートを押して部屋に入り、テーブルに白いクロスを敷き、銀の器のフタを空けてパスタとサラダ、小皿に盛ったパン、バターを置く。

 グリルしたホタテ貝とグリーンアスパラの乗ったホワイトソースのパスタ、ベビーリーフと赤かぶのスライス、プチトマトのサラダである。パンもちょうどよく温まっている。考えてみればホタテも海鮮だったが、夜はエビでも食べることにしよう。

 テレビをつけるとホテル内の案内ビデオが流れる。リモコンのチャンネルを押していくとBBC、CNN、さらには中国国営CCTVの全てのチャンネルが網羅されているようだ。

Friday, February 12, 2021

第二章 香港(1)

  長距離フライトで10時間を超えるとエコノミーではきついが、ビジネスクラスでは疲れ方がまったく違う。ゴーっとした音を子守唄にフラットシートに体を伸ばして熟睡し、気がつくと客室乗務員が朝食前の蒸しタオルを配りはじめていた。

 MI5はお金があるのだろうか。どこまで本当かわからないが、007シリーズの映画を観る限り貧乏という感じはない。ネコが勤めていた組織では出張費の規定が厳しく、かなり遠方への海外出張や上級管理職でもほぼ100%エコノミークラスだった。それでも疲れを見せないアメリカ人たちに驚いたものだ。

 とにかく予算があるのは素晴らしい。作り立てのオムレツと温かいパン、新鮮なサラダとヨーグルト、メロンとイチゴ、キウイフルーツとりんごのスライスを乗せた皿が次々と白い布のナプキンの上に置かれる。食後のコーヒーを飲みながら、明日の展示会をどう回るか、つらつらと考える。食事を終えてトイレと歯磨きをすませ、着陸態勢に備える。

 キャセイ・パシフィック航空の機体はなめらかに着陸し、早朝の香港国際空港に到着した。イギリス英語の機長アナウンスが流れ、つづいて客室乗務員がマンダリンと広東語に通訳する。マンダリン、広東語の順番であることが、香港の「中国化」をあらためて感じさせる。

 空港内のあちこちに中華人民共和国と香港政府の旗がならんでいる。6月の香港はすでにかなり蒸し暑く、エアポートエクスプレスの車内はガンガンにエアコンが効いていて寒い。香港駅で降り、予約しているグランドハイアットにタクシーで向かう。

 大きな花瓶に色とりどりの花々が宿泊客を迎える。茶系のロビーは塵ひとつなく磨かれ、グランドピアノの生演奏が聞こえる。

 チェックインをすませて45階の客室に向かう。ドアを開けてカードキーを差し込むと、部屋の照明がいっせいにつく。カーテンを開けると、真っ青な空の下にヴィクトリアハーバーと高層ビル群が広がる。湿度の高い香港では、どんなに掃除を徹底しても中庭に面した部屋は少しカビ臭いが、オーシャンビューではそれも感じない。

 日本円で1泊7万円もする部屋だが、ボンドの世界では当たり前のようだ。むしろスイートでなくて申し訳ないという感じだった。

 東側の窓から、さんさんと降り注ぐ太陽がまぶしいが、長旅の疲れと時差ボケでどっと眠くなってきた。自動ボタンでカーテンを閉めて部屋の電気を消すと、真っ暗である。低反発枕に首を安定させ、羽毛布団をかけるとすぐに眠りに落ちた。

 トゥルルル。。。電話が鳴っているようだが、用事があればボイスメッセージに入れるだろう。 

Thursday, February 11, 2021

第一章 ロンドン(15)

  最近はブログやYouTubeで小遣いを稼いでいるが、趣味の延長でやっている。このため仕事らしい仕事の話は久しぶりである。

 最新のブログでネコはセミリタイアしつつロンドン滞在を楽しむ様子を伝えていた。メールの相手はロンドン在住で、とりあえず近所でお茶でもしながら話をすることになった。暮らすように滞在するのが目的のため、 BBC Promsが来月始まるまで特に用事はなく、翌日の午前10時に近くのパブで会う約束をした。

 少し早く行ってテーブルにつき、スマホをいじっていると声をかけられる。

「ネコさんですか。。?」 

 50代前半のイギリス人男性だろうか。どこかで見覚えがある。

「。。。ん。。? もしかしてジェームズ・ボンドさんじゃないですか。。??」

 まさにボンド役のダニエル・クレイグそっくりだ。Kings Road界隈に住んでいるという設定だが、本当の話だったのか?

「いやまさに、そうなんですよ。びっくりしましたか?」

 こんなことがあるのだろうか。ネコは大きな目を丸々と見開き、男性を見つめた。

「それでお仕事の相談っていうのは。。いきなり本題に入っちゃいますが」

 現在のボンドのミッションは、米国が中国を相手に国際司法裁判所に提訴した件だという。米国国務省は新型コロナウイルスが中国・武漢の研究所でつくられた人工ウイルスだと主張してきた。だがWHOが同研究所にミッションを派遣して調査したものの、すでに中国は証拠を隠滅し、中国側が見せたい場所を案内しただけだった。米側が国務省や現地の大使館を通した正規ルートを使って調べようにも、結局は同じように中国のプロパガンダに利用されてしまう。

 そこで米政府はCIAを通じて、MI5など同盟国の諜報機関に協力を求めてきた。

「正面から行っても埒が明かない。別のルートで情報を集める必要がある。あなたは日本人でぱっと見に中国人と区別がつかず、完璧な発音のマンダリンを話す。米系組織に勤めていたため、米側の視点や興味・関心にも通じている。だが中国人ではないので中国政府に情報がもれる心配はない。あなたほど理想的な協力相手はいないんです」

 これは驚いた。ネコは米系組織に勤務中、スパイのお誘いを受けた時の対処法について毎年研修を受けていた。国務省職員にキューバのスパイが近づき、当時の米政策に疑問を感じていた同職員は、これをきっかけにキューバ政府に機密情報を30年間も垂れ流していたという。こうした事態を避けるための対処法を学ぶ研修であった。

 今回の仕事はこれとは逆パターンで、米国側のスパイになりませんか、というお誘いなのだろうか。

「え~~、なんかドキドキしますね。具体的には私に何をやってほしいんですか?」 

 ボンドは笑いながら言う。「映画のようなアクションをするわけじゃないので、安心してくださいね。まずは香港に行って、バイオとか医療関係の展示会や会議に参加してください。そこで発表された研究成果、プレゼン、新商品、参加者との会話など、あるいは街角で見つけたもの、なんでも構わないので、なにかおもしろいと思ったことがあれば英語でレポートを書いて送ってください」

 これならネコが以前にやっていた仕事とほぼ変わらない。こうして一見関係のない情報を集めて、CIA本部がほかの情報とつなぎ合わせて分析する、ということなのだろう。

 とりあえず来週に香港で行われる展示会に出てほしい、とボンドは言う。やれやれ、全てを忘れてのんびりするためにロンドンにやって来たのに、BBC Promsに行くこともなくアジアにとんぼ返りというわけか。いや、ダメ元でちょっと聞いてみよう。

「来月に始まるBBC Promsに行きたいんですが、その頃に戻ってきてもいいですかね。。?」

「それはちょうどいい。現地で感じたことを、その時に聞かせてください」 

Tuesday, February 9, 2021

第一章 ロンドン(14)

  ふつうに考えて経済規模や人口、産業構造といった観点から、ロシアが米国の脅威と言えるだろうか。ソ連時代にモスクワに駐在していた馬渕睦夫・元駐ウクライナ日本大使は、当時のソ連の貧しい状況から米ソ対立は茶番だと感じたという。

 その一方で、中国はたしかに急速な経済成長を遂げ、民主国家にはできないトップダウンによる国策でインフラ整備やコロナ対策などを効率的に行った。その中国と欧州は陸路で結ばれ、ドイツの工業製品やフランスのワインやチーズが大量に中国へ輸出されている。トランプ大統領がEUとの貿易戦争で欧州製品に高関税を課すなか、中国は欧州から爆買いを続けた。

 ヨーロッパにとって中国はいいお客さんであり、米国は政権交代の度に朝令暮改を繰り返す混乱国家なのかもしれない。こうして考えていくと、中国+欧州 vs. 米国という構図も浮かび上がる。

 ネコとアルはひとしきり時事ネタや世間話に興じ、残りのコーヒーを飲み干す。

「じゃあ、そろそろ行こうか。香港に来る機会があれば、知らせてね!」と、アルはトレーを持って立ち上がる。ガラスのドアを押して外に出て、二人は手を振る。

 ネコは地下鉄テンプル駅へと歩き出した。この懐かしい風景は15年前と変わらない。

 スローンスクエア駅で降りてKings Roadを行く。あのジェームズ・ボンドが住む界隈である。百貨店のPeter Jonesは閉店してしまったようで、今ではBMWのショールームになっている。もはやガソリン車はなく、太陽光パネルで動く「空飛ぶ自動車」の最新モデルが並ぶ。

 パン屋のPaulでお気に入りのチェリーパイを買う。かつては大きなパイの切り売りで、どのスライスを買うかによって若干の大小があった。今ではフランス本社が作成したレシピで3Dプリンターが忠実に再生し、世界中どの店でも全く同じ大きさと味のパイを提供している。少しでも大きく見えるスライスを指さして注文したのが、今となっては懐かしい。

 Marks & Spencerでパスタとサラダの総菜を買い、Sloane Avenueの緑の木々が茂る中を歩いてアパートに着く。部屋に戻りPCを立ち上げる。

 米系組織を退職後、ネコはブログやYouTubeでFIRE(Financial Independence, Retire Early)の体験談やノウハウを伝える記事や動画をアップして小遣いを稼いでいる。仕事を辞めた当初は疲れ切って、文字通りネコのように昼寝三昧の生活だった。おかげですっかり元気になり、半年もすると飽きてきた。しかしヒマだからといって、あの永遠に続くクレイジーな世界に戻りたいかと言えば、答えはノーである。

 メールを開くとメッセージが届いている。ブログ読者の問い合わせのようだ。最近のグーグル翻訳はほぼ完璧になり、元のメッセージの言語はわからないが、和訳ボタンを押せばすぐにまともな日本語が出てくる。

「あなたのブログを拝読しました。とても興味深い経験をお持ちですね。よろしければ、ちょっとお願いしたい仕事があるんですが、ご相談させていただけませんか?」

Monday, February 8, 2021

第一章 ロンドン(13)

 たしかに科学技術には国境はない。ある国で研究開発が行われたとしても、いくつかの国との協力であることが、ほとんど全てと言っていいだろう。スペースシャトル、海底探査、医学など。

 新型コロナウイルスに関しても、世界各国が症例や薬剤、ワクチンといった情報を共有して対策に役立てている。コロナが人工ウイルスだとしたら、その開発段階でなんらかの国際協力が行われたとしても不思議ではない。むしろ、中国が単独で行ったと考えるほうが不自然かもしれない。

「そうだね。。それは無理かもしれないね」とネコはカプチーノの泡を吸いながら言う。

 ではどこの国が協力したのだろうか。つまり、どの国がアメリカやイギリスを嫌っているのか。

 米国シンクタンクPew Research Centerの世論調査が興味深い。「アメリカが嫌い」と答えた人の割合が最も高いトップ5カ国は、2018年の調査でドイツとロシアが同率(66%)で1位、3位オランダ(62%)、4位メキシコ(61%)、5位フランス(60%)となっている。トップ10には、このほかギリシャ(59%)、スペイン(54%)、スウェーデン(50%)と欧州諸国が合計6カ国を占めている。調査した年によって違いはあるものの、おおむねヨーロッパがトップ10の約半数となっている。米国に最も近い同盟国のイギリスでも、4割程度の人が「アメリカが嫌い」と答えている。

 ヨーロッパはアメリカが嫌いなのだ。

 そこでネコはふと思い出した。元CIA職員のエドワード・スノーデンの内部告発によって、米当局は世界中の要人や市民の電話やパソコンにアクセスし、膨大な量の個人情報を違法に集めていることがわかった。ドイツのメルケル首相も携帯電話を盗聴され、怒りをあらわにしたと報じられた。

 そのスノーデン氏はもともと中南米への亡命を希望していたが、香港発エクアドル行きの飛行機に乗る直前に米国パスポートを無効にされ、モスクワに逃げた。ロシアに亡命後、現在はロシアの永住権を与えられモスクワのアパートに住んでいる。

「ロシアに住むことになったのは偶然に過ぎない」と、彼は米国大手メディアMSNBCのインタビューで語っている。中南米がダメだったので、ロシア滞在中にドイツ、フランス、ノルウェーなど欧州への亡命も試みた。その手続きも進んでいたが、最終的に当時の国務長官ジョン・ケリーか副大統領ジョー・バイデンのうちの一人から、これらの国々の外務省に脅しの電話がかかってきた。

「あなたの国の法律によってスノーデンを亡命させるのは自由だが、もしそうした事態になれば、いくつかの結果を招くでしょう。どんな結果なのかはお話しできませんが、とにかく反応はあります」

 米国はなにかと言えばロシアを敵視しているが、元CIAの内部告発者がロシアに住み続けることよりも、欧州の主要国に住むことのほうが米国にとって都合が悪い、ということなのか。

Sunday, February 7, 2021

第一章 ロンドン(12)

  いろいろな疑問や妄想がネコの頭をうずまき、コロナはステージを歩きつつ話しつづける。

「こうして私は信賞必罰をモットーに活動したのです。私の話は以上ですが、なにかご質問はありますか?」

 会場では拍手する人もいれば、茫然とした人もいる。矢継ぎ早に多くの手が上がり、コロナが質問者を指名する。スタッフがマイクを持って小走りに向かう。

「あなたはどこで生まれたんですか? 中国・武漢の研究所ですか?」

「はい、そうです。両親はコーモリで、私の兄はSARSです。ただ"助産師"がたくさんいたからこそ、私はこの世に生まれることができました」

 つづいて質問は殺到したが、時間の都合で打ち切られた。コロナは舞台のそでに退出し、会場の扉が開いて聴衆がざわざわと出て行く。ネコは席を立ちあがり、通路で列に並ぶ。

 ふと見覚えのある顔と目が合う。

「・・・アル!」

 世界140カ国以上から留学生が集まるLSEで、数少ないイギリス人クラスメートのアルだった。彼は中国国営の巨大企業にヘッドハントされ、香港に住んでいる。この講演のために一時帰国したのだろうか。 よく見ると彼の席はLSE同窓生の枠ではなく、特別に用意された関係者席だった。

「ネコ、ひさしぶり! なつかしいね。その辺でお茶に行かない?」

 Peacock Theaterから広い道を渡ると、Pret A Mangerがある。サンドイッチやサラダを各店舗でつくる高級ファーストフード店だ。コロナ禍で多くの店舗を閉鎖したが、ここの店は残っていた。

 扉を押して店に入り、チョコ入りのクロワッサンとカプチーノを注文する。

「本当に久しぶりだね。すごくうれしい。僕が払うからね」と言うアルには、とても仕事がうまく行っている雰囲気が漂う。ネコは「ありがとう」とお言葉に甘え、空席を探してアルを手招きする。

「ぜんぜん変わらないね! いまは一時帰国してるんだ?」。猫舌のネコはカプチーノの泡を息でふきながら聞く。

「そう、というか出張だけどね。いろいろと忙しくて。。」

 中国国営の巨大企業の社長室で働くアルは、そりゃ、いろいろと忙しいのだろう。

「ところでコロナは"助産師"がたくさんいたって言ってたけど、誰なんだろうと思ったよ」。長年ジャーナリストとして働いていたネコは、さりげない会話から情報を聞き出す質問の仕方を心得ている。

「まあね。。。あれだけ世界中を席巻した強力なウイルスを、ひとつの国の科学者だけで開発できたと思う?」

Saturday, February 6, 2021

第一章 ロンドン(11)

 欧州に滞在しているとドイツの勢力を肌で感じる。

 LSE大学院に留学中、毎週大量の読書が課された。とても一人の学生が読み切れる量ではない。学部を卒業したばかりの若いドイツ人女子学生がクラス全員に呼びかけ、Reading Groupをつくった。彼女が各人に課題図書と要約作成の作業を振り分け、締め切りまでにGoogleのフォルダーにアップロードするよう指示した。要約の分量、ファイル名の書き方などの詳細も指定し、おかげで全員が効率的に課題図書の要点を理解することができた。

 そして驚いたことに彼女自身は要約作成の作業をせず、全体を仕切っただけだった。ただ韓国人の女子学生だけはグループに入りながら最後まで要約をアップロードせず、級友たちの作業の果実を取っただけだった。ドイツ人は怒りのメールを何度も出したが、韓国人学生は徹底的に無視した。

 いろいろな意味で興味深い経験だったが、職務経験もないのに上級管理職のような手腕を持つドイツ人学生には度肝を抜かれた。

 こうした優秀さという背景もあるのだろうか。欧州人の間では今でもドイツへの恐怖の念があるようだ。ロンドンっ子のニコは、トラファルガー広場をネコと散歩しながら言った。

「このライオン像にはドイツに空爆された跡がずっと残っていたが、最近補修されたようだ。歴史の証拠として残しておくべきだった」

 また、ある時期にネコはドイツ人の男性と知り合い、イタリアを一緒に旅行するためフィレンツェで落ち合う計画を立てていた。ところが彼は行けなくなり、ネコは休暇の予定を変更できなかったため、仕方なく一人でホテルにチェックインした。

「まったくドイツ人の友達が急に来られなくなったのよ」とグチると、受付の若い男性は言った。

「そんなの全然かまわないよ! ドイツ人なんてヒトラーじゃないか!! 世界で最高の男はイタリア人だよ!!! 今夜はあなたの部屋に行くよ!!!!!」

 これがうわさのイタリア人男性なのか。。とネコは驚きながらも笑ってしまった。そして20代に見える若い男性の口から思わずヒトラーという名前が出るほど、欧州では今でも第二次大戦の爪痕が残っているのかと感じた。

 そう考えていくと、たしかにEUはドイツが仕切っている。フランスはその片腕といった位置づけだろうか。長年にわたり独仏国境問題の舞台となってきたストラスブールに欧州議会本部はある。

 ドイツがコロナを擬人化できたということは、コロナをあやつることもできるのだろうか。そうなるとイギリスで突如として変異株が登場した背景には、EU離脱のお仕置きという意味合いもあるのか?

Friday, February 5, 2021

第一章 ロンドン(10)

 もう20年近く前になるだろうか。ネコはエジプトへ旅行に行った際に1日100ドルでタクシーを手配し、カイロの観光名所を一通り回ってもらった。

 エジプト博物館にミイラ室がある。博物館の入場料に加えて、ミイラ室の入場料が10ドルだった。少し考えたが、またカイロまで来るとなると大変なので入ってみた。

 4000年も前に亡くなった人の表情、思いが伝わってきて驚いた。これほどよい状態で死体を保存できるものなのか。それを言えば、モスクワの赤の広場にレーニン廟がある。まるで蝋人形のように完璧な状態で暗い部屋の中央に、永遠の眠りに落ちたレーニンが横たわっている。 

 こうした事例をみると、イギリスが海外の芸術品を持ち帰ったからこそ保存できたという主張はたしかに詭弁に聞こえる。 

「歴史をひも解けば、誰でもおかしいとわかる。だが長い物には巻かれろで、権力者の言うことに盲従してしまう。そうでなければ痛い目に遭う」

 聴衆の中に苦笑がこぼれる。

「しかし納得できない感情は残り、こうした無理はそう長く続くものではない。地球温暖化と似ている。温室効果ガスを排出しつづけたことで地球全体が温暖化し、各地に酷暑や風水害、サンゴの白化などをもたらした。

 人類はようやくゼロエミションに向けて本格始動したが、アニマルウエルフェアについては取り組みが足りない。そこで地球温暖化と同じように警鐘を鳴らす使命を帯びて、私が登場した」

 コロナの論理は合っているようでもあり、やや危険にも思える。コロナ禍に倒れた多くの人は基礎疾患を持つ患者、高齢者、医療従事者である。

 ドイツ政府がこのプロジェクトに出資した意図は何なのだろうか。

Thursday, February 4, 2021

第一章 ロンドン(9)

 颯爽と登壇したコロナは、小さな黒いマイクを胸にピンでとめている。TED talksの講演のように流暢に話しはじめる。

「まずはコロナウイルスという微生物である私に声を与え、発言する機会をくださったドイツ政府に感謝します。アニマルウエルフェア(動物福祉)を尊重する考え方から来たものと理解しています。

 アニマルウエルフェアこそ私の使命そのものです。人間、サル、トラ、サーモン、カニ、そしてウイルスもすべてアニマルです。辞書を引くと"a living organism that feeds on organic matter"と定義されています。

 さらにWikiでは、アニマルウエルフェアを「人間が動物に対して与える痛みやストレスといった苦痛を最小限に抑えるなどの活動により、動物の心理学的幸福を実現する考え方」と意味づけています。

 ここで人間がほかの人間に与えてきた苦痛を振り返ってみましょう。世界的な規模で始まったきっかけは「新大陸発見」であり、奴隷制度、植民地支配、戦争と続いてきました。イギリスをはじめとする欧州勢力がアメリカの原住民を殺害し、アフリカから黒人を連行して奴隷として働かせ、アジアやアフリカ、中南米などを植民地化した。第二次大戦では多くの市民も犠牲になった。9-11、イラク戦争、シリア情勢など「動物福祉」の真逆の行為はとどまるところを知りません。

 まずは犯人たちにお灸を据える必要がある。私はその使命を受けて誕生しました。米国で最も犠牲者が多いのはこのためです。これまで米国が国内外で行ってきた殺戮、空爆、原爆投下、9-11の自作自演、でっちあげた理由による戦争、軍事力を背景にしたヤクザまがいの略奪行為は許されるものではない。そのような勢力を弱体化させることが、世界的な動物福祉につながります」

 聴衆の表情はさまざまだった。アメリカ人の顔は凍りつき、アジアやアフリカなど有色人種の間では思わず苦笑もこぼれた。

 コロナ禍の真っ最中、ネコは米国の友人や元同僚が心配でたまらなかった。その一方で東京大空襲など米国が各地で行った空襲、原爆投下、沖縄の地上戦、さらには米系組織の欺瞞を思い出し、ついにアメリカには天罰が下ったのかとも感じていた。

 おそるおそる、こうした感想を中国人の友人に話してみると、彼も同じような見方をしていた。「たしかに一般の米国市民に罪はない。だが全体としてみれば、米国が長年行ってきた略奪行為で得た国益によって、彼らも恩恵を受けている。アメリカ人のノーベル賞受賞者は多数いるが、そのほとんどは白人で、原住民はいないのではないかと思う」

 一呼吸を置いてコロナは講演を続ける。

「イギリスで発生した変異株にも同じような背景があります。すぐ近くの大英博物館に行ってみてください。古代エジプトやギリシャから略奪してきた芸術作品が展示されています。その説明がふるっているじゃないですか。イギリス人がこうして持ち帰ったからこそ、古代芸術は保護された。ロンドンで展示されたことで一般の理解も深まった、と。傲慢な上から目線も甚だしい。大英博物館が観光資源となってイギリス経済に貢献したとは、一言も言わないんです」

Wednesday, February 3, 2021

第一章 ロンドン(8)

 大英博物館にほど近いロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)。ケネディ大統領など世界の要人が学んだキャンパスでは、著名人を呼んで数々の講演会を開催してきた。

 コロナが収束して初めてのイベントは、新型コロナウイルス本人が登場することになった。動物愛護の考え方が進んでいる欧州では、ペットや野生動物のみならず、魚類やカニなどの甲殻類、さらには細菌やウイルスといった微生物の気持ちを理解し、権利を保護する動きが出てきていた。

 アニマルウエルフェアをとりわけ重んじるドイツ政府の研究費によって、ウイルスをドイツ人男性の平均身長である180センチに拡大し、ウイルスが自らの考えを言葉で表現する技術が開発された。

 ドイツ大使館とLSEの共催で行われた講演会は、世界中の注目を浴びた。通常の講演会は一般公開されることもあるが、今回は長蛇の列が予想されたため、聴衆はLSE関係者に限定。それでも出席希望者が多数のため抽選となり、チケットを手にできたのは20人に1人だった。コロナでアルバイト先を失った学生は、ひそかに当選したチケットを転売。ダフ屋で3万ポンド(430万円)の値をつけて、滞納していた授業料を一括払いした。

 会場となったPeacock Theatreのドアが開き、当選チケットのQRコードをスマホでかざした聴衆が次々と入場していく。

 ネコは同窓生枠にダメ元で応募したところ、今朝起きてスマホを見ると当選したとのメッセージが届いていた。昨晩キャンセルが出て急遽出席できることになったという。スマホで受信したEチケットには席が指定され、たどっていくと前から3番目の中央だった。かなりいい席である。

 満席の会場で司会の教授が式次第を説明したあと、駐英ドイツ大使が挨拶をする。

「コロナ禍によって世界中で8500万人もの尊い命が奪われ、世界恐慌を上回る経済被害を被りました。なぜこのような事態になったのか。新型コロナウイルスの意図は何だったのか」

「ヒトラーは最後に自殺したため、ホロコーストの本当の理由はわかりません。米国のオバマ政権はウサマ・ビン・ラディンを殺害し、9-11の真実はわからずじまいです」

「こうした反省に立ち、ドイツ政府はコロナを捕獲してAIによって擬人化し、本人の考えを聞く技術を開発しました。本日はコロナ本人に講演をしてもらいます。ではコロナさん、どうぞ」

 金髪で青い目、ドイツの田舎町にいそうな男性がステージに登場。聴衆は困惑した表情を浮かべながらも、割れんばかりの拍手でコロナを迎えた。

Tuesday, February 2, 2021

第一章 ロンドン(7)

 理想と現実。本音と建前。米国ではそのギャップが際立っている。マイケル・ムーアはそうした状況をありありと伝えるドキュメンタリーを製作してきた。

 本質に迫るという点では、英国のコメディーも秀逸である。Monty PythonのMinistry of Silly Walksという作品がある。おかしな歩き方をすることをミッションとする官庁という設定で、職員はどれだけおかしいかを競い合い、おかしさの度合いで評価される。

 テレビの修理は終わり、作業員がリモコンをつけて直ったことを確かめた。夜7時になりチャンネルを回していくと、2024年のパリオリンピックを検証する特集番組をやっている。東京オリンピックは2032年に持ち越されたものの、昨年はようやくコロナが下火になってきていたので、パリでは規模を縮小して無観客で行われた。

 最も注目を浴びたのは女子のバレーボール、ビーチバレー、バスケットボールである。米国選手の全員が2メートル前後の長身で、ほとんどがニューハーフだった。国際オリンピック委員会(IOC)は2004年から性別変更選手の参加を認めていたが、多くの国では対応する国内法がなかったため性転換したスポーツ選手はあまりいなかった。

 ところが米国ではバイデン大統領が就任早々、性転換した元男性が女子用のトイレや更衣室に入り、女子スポーツに参加できるようにした大統領令に署名した。バイデン政権で性転換者のスポーツ参加が進んだ結果、米国では女性のスポーツ選手は少なくなっていった。

 伝統的な女の園への「男性進出」はスポーツ以外にも幅広い分野で進んだ。ヒラリー・ローダム・クリントン氏の出身校で女子大のウエルズリー大学でも、性転換した元男子の入学を許可している。

 自由と平等を標榜する米国だが、そもそも論として自由と平等はどのようにすれば両立するのだろうか。性転換者の自由を認めた結果として、出生時の性別という点では男女平等から遠のいている。また人権という観点では、女性として生まれた人間がスポーツで活躍する権利を奪われ、多くの女性が元男性とトイレや更衣室を共有するという気持ち悪さを味わう。

 バイデン氏はいわばMinistry of Silly Walksのトップであり、スタッフはこうした政策をどれだけ着実に実行できるかで評価される。ただ、彼がスピーチで「まともさを取り戻す」と強調したように、トランプ時代もまともではなかった。それを言えば、外食や外出の自粛を求めながら、8人で会食した菅総理も思い出す。

 つらつらと考えているうちに眠くなり、歯を磨いてテレビを消し、ベッドにもぐりこむ。どっと眠気が押し寄せたところへ、電気スタンドの近くに置いたスマホの着信音が一回鳴る。おそらく何かメッセージが届いたのだろう。緊急の用事なら電話が来るはずなので、とりあえずそのまま放置する。

Monday, February 1, 2021

第一章 ロンドン(6)

「702号室ですが、テレビが映らないんですけど。。」

「ええっ、ネコさんじゃないですか?」と日本人女性の声が驚いたように言う。

 声の主はマリだった。15年前にネコがこのアパートに住んでいたとき、管理人室のスタッフとして働いていた。長年の欧州生活を終えて帰国した彼女と、東京で食事をしたこともある。コロナ後の旅行業界バブルで人手不足になった欧州に戻り、アパート管理に助っ人として呼ばれたという。 

「すいません、すぐに作業員を行かせます。また食事にでも行きましょう!」

 ほどなくドアのベルが鳴り、作業服を着た男性が現れた。やはりサービス業は日本人スタッフに限る。

 仕事であれプライベートであれ、日本人が海外に出て最も苦労することの一つは相手からの返事のなさである。日本人の間ではメールを送ったのに返事がない、ということはほとんどないが、欧米では日常茶飯事である。このため日本人の多くはどうしたのだろうと途方に暮れる。

 返事が来ない理由を一言で言えば、日本人はきちんとしているが、一般的に欧米人は日本人ほどきちんとしていない、ということに尽きる。きちんとしていないというのは、相手のことを考えない、という意味でもある。

 ロンドンでこんなことがあった。ネコはかつてアパートの近くにあるジムに通っていた。帰国の時期が近づき、退会の手続きをする必要があった。金曜の午前中に電話すると、受付の女性は「マネージャーに確かめて今日中に折り返します」と言った。

 しかし、いくら待っても返事がない。午後3時に再び電話をすると、電話口に出た別の担当者が「彼女はもう帰った。私は何も聞いていないのでわからない。来週にまた電話してください」と言う。月曜に連絡すると、受付の女性は「金曜の午後だったから、仕事を早く切り上げた」と悪びれた様子もない。

 こうした例はロンドンにとどまらない。

 ネコの勤めていた米系組織は、米国製品を輸出するうえでの貿易障壁を取り除くことをミッションとしていた。ある製品に関してカナダ製と競合関係にあり、米国の産業界は自国製品が不利にならないよう神経をとがらせていた。

 日本では安心・安全を最重視する消費者の意向をかんがみ、この製品分野の規制はかなり厳しかった。ところが米国で環境汚染が発生して製品に影響を与えたため、日本は米国製品の輸入をストップした。環境汚染は北米の広範囲に及んだため、カナダ製品も同時に輸入禁止になった。

 カナダは日本とすぐに交渉を開始した。汚染を取り除く処置を行い、改善した証拠を示すデータを提示した。薬害エイズで世間の非難を浴びた日本の担当部局では、二度とこのような失態を演じないよう、輸入品の安全性を確認する作業は気が遠くなるほど厳密だった。永遠に思われるやり取りの中、数え切れないほどの検査データの提出要求にカナダはすべて答えていった。

 結果として、カナダ製品の輸入禁止は1年後に解除となった。だが米国の動きは遅く、米国製品の禁輸はその後も続いた。ネコの勤める組織の本部担当者が、日本側からの質問をずっと放置していたのだ。いらだちを募らせた米国産業界はネコと会う度にこの件を持ち出し、ネコは担当者に数え切れないほどのReminderを送り、米国時間に合わせて夜中に電話もした。それでも返答はなかった。

 ロンドンのジムの受付女性を思い出し、欧米特有の「放置プレイ」にネコは頭を抱えた。