Monday, February 1, 2021

第一章 ロンドン(6)

「702号室ですが、テレビが映らないんですけど。。」

「ええっ、ネコさんじゃないですか?」と日本人女性の声が驚いたように言う。

 声の主はマリだった。15年前にネコがこのアパートに住んでいたとき、管理人室のスタッフとして働いていた。長年の欧州生活を終えて帰国した彼女と、東京で食事をしたこともある。コロナ後の旅行業界バブルで人手不足になった欧州に戻り、アパート管理に助っ人として呼ばれたという。 

「すいません、すぐに作業員を行かせます。また食事にでも行きましょう!」

 ほどなくドアのベルが鳴り、作業服を着た男性が現れた。やはりサービス業は日本人スタッフに限る。

 仕事であれプライベートであれ、日本人が海外に出て最も苦労することの一つは相手からの返事のなさである。日本人の間ではメールを送ったのに返事がない、ということはほとんどないが、欧米では日常茶飯事である。このため日本人の多くはどうしたのだろうと途方に暮れる。

 返事が来ない理由を一言で言えば、日本人はきちんとしているが、一般的に欧米人は日本人ほどきちんとしていない、ということに尽きる。きちんとしていないというのは、相手のことを考えない、という意味でもある。

 ロンドンでこんなことがあった。ネコはかつてアパートの近くにあるジムに通っていた。帰国の時期が近づき、退会の手続きをする必要があった。金曜の午前中に電話すると、受付の女性は「マネージャーに確かめて今日中に折り返します」と言った。

 しかし、いくら待っても返事がない。午後3時に再び電話をすると、電話口に出た別の担当者が「彼女はもう帰った。私は何も聞いていないのでわからない。来週にまた電話してください」と言う。月曜に連絡すると、受付の女性は「金曜の午後だったから、仕事を早く切り上げた」と悪びれた様子もない。

 こうした例はロンドンにとどまらない。

 ネコの勤めていた米系組織は、米国製品を輸出するうえでの貿易障壁を取り除くことをミッションとしていた。ある製品に関してカナダ製と競合関係にあり、米国の産業界は自国製品が不利にならないよう神経をとがらせていた。

 日本では安心・安全を最重視する消費者の意向をかんがみ、この製品分野の規制はかなり厳しかった。ところが米国で環境汚染が発生して製品に影響を与えたため、日本は米国製品の輸入をストップした。環境汚染は北米の広範囲に及んだため、カナダ製品も同時に輸入禁止になった。

 カナダは日本とすぐに交渉を開始した。汚染を取り除く処置を行い、改善した証拠を示すデータを提示した。薬害エイズで世間の非難を浴びた日本の担当部局では、二度とこのような失態を演じないよう、輸入品の安全性を確認する作業は気が遠くなるほど厳密だった。永遠に思われるやり取りの中、数え切れないほどの検査データの提出要求にカナダはすべて答えていった。

 結果として、カナダ製品の輸入禁止は1年後に解除となった。だが米国の動きは遅く、米国製品の禁輸はその後も続いた。ネコの勤める組織の本部担当者が、日本側からの質問をずっと放置していたのだ。いらだちを募らせた米国産業界はネコと会う度にこの件を持ち出し、ネコは担当者に数え切れないほどのReminderを送り、米国時間に合わせて夜中に電話もした。それでも返答はなかった。

 ロンドンのジムの受付女性を思い出し、欧米特有の「放置プレイ」にネコは頭を抱えた。 

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